2014年07月01日

アートふる山口とは

アートふる山口とは

大内文化、西の京といろいろとな形容詞がつくふるさと山口。しかし、この町の本当の良さを私たちはどこまで理解し、伝えていると言えるでしょうか。

 「ア−トふる山口」は山口のまちの良さを再発見し、魅力を引き出し、後生に伝えるために生まれた事業です。生活文化・芸術文化・伝統文化を発掘し広める文化事業、高校生達にふるさとの歴史や人の絆を伝える人づくり事業、そしてまちそのものを草の根運動で盛り上げるまちづくり事業の3本柱を掲げています。「ア−トふる山口」では、4月から始まり翌年の3月までの1年間事業として展開し、様々な展示・催しが竪小路・大路小路周辺と一の坂川周辺を舞台に10月の2日間複合的に発表会を開催しています。発表会当日も大切ですが、準備や企画の段階で様々な人と出会い、助け合い、知恵を出し合って形づくる過程こそが重要だと考えています。

 次世代にまちの良さを伝えるお年寄りたち、忙しい合間をぬってまちおこしに参加する人たち、そんな一人一人の努力が結集する事業が「ア−トふる山口」です。地域主導のまちおこし・ひとづくりです。


  

きっかけは・・・

 「アートふる」は、「天から降る」「full:いっぱい」からとった、歴史・文化・伝統・創造という広い意味でのアートで溢れている、という想いの込められた造語です。

 第1回目は1996年(平成8年)10月に開催されました。以降、毎年秋の行事としてひろがりをもってきていますが、当初は山口青年会議所社会開発委員会が中心となり事業を立ち上げました。「今の山口を何らかの形で良くしたい」「何かをしなくてはいけない時期に来ている」「具体的に何から手を着けたらよいか分からない」等の意識が強くなる中、そして必要とされていた時に一石を投じたところ、これが大きな波紋となって広がったのが「アートふる山口」です。

 今から約650年前、山口の地は大内氏により西の京として繁栄し、雪舟に代表される多くの文人墨客文化人が戦乱の京をさけ、山口の地へ逃れてきました。その後大内氏は滅亡し、関ヶ原の戦いにより敗れた毛利氏により山口は統治されました。江戸時代に居城が萩に移り一旦は寂れましたが、幕末から尊皇攘夷運動が芽生え明治維新の志士達が多くこの地を舞台に活躍し、日本を開国へと導きました。本来ならもっと都会的に発達してもおかしくはなかったのでしょうが、静かな佇まいと町筋は逆に残ったのが特徴だとも言えます。

 しかし、今後の山口をどの様にしたら活力が芽生え、働きがいのある魅力的なまちになるのかは誰しもが考える最も重要な課題でした。

モチーフとして

この催しは有志達が福岡県うきは市吉井町を訪れた事から始まります。独特の白壁土蔵づくりの商家が軒をつらね、町中を流れる幾筋もの清流ととけ合った情緒と人情豊かな街で展開されていた平成3年から毎年5月に開催される「筑後吉井の小さな美術館めぐり」がモチーフとなっています。そこに活きる普段のふれあいが最大のヒントになったのは間違いありませんが、山口にある豊かな歴史と自然を背景にもっと地域の個性を生かし、次世代に伝えていく形でのまちづくりを行えないかと考え、新たに取り組んだ結果がこの「アートふる山口」の誕生に繋がりました。

いよいよスタート

 山口市内の一の坂川地区、いわゆる後河原地区から竪小路地区は、昭和の初期までは山口の中心繁華街として栄えたところです。現在は人通りも少なく、高齢化が進みました。多くの子供が都会や郊外に出たまま帰ってこず、空き家や空地が目立ってきていました。

 このような中、平成7年(1995)11月より山口青年会議所社会開発委員会が中心となって、「山口を何とかもり立て、若者に本当の山口の素晴らしさを分かってもらうため、『アートふる山口』をしたい」と、地域の人たちへ話を持ちかけました。一足飛びに地域の方の理解が得られた訳ではなく、およそ半年間スタッフが一軒ずつ説得して回り、5回の地元説明会を開催するなどした結果、平成8年4月には約40軒の協力が得られる目処が立ちました。同年10月の開催まであと半年という段階に来ていたため、5月に行ったプレス発表は大いに力が入りました。平行して進めていた高校生を中心としたハートふるガイド(現・高校生スタッフ)の養成はマスコミの注目を集めることとなり、報道により「アートふる山口」がさらに広く一般に知れるようになりました。

 第1回アートふる山口の当日、自宅を開放した家庭から「昼食がとれないぐらい忙しかったが、30年ぶりに幼なじみに会えてうれしかった」という感想を頂きました。ガイド役として参加した高校生ボランティアガイドからは「山口の歴史を肌で感じることが出来、遠くにいっても古里を誇りに思える」という感想を頂きました。まちづくりはお金をかけて一気にするものでも、出来るものでもありません。まちを構成しているのは、一人の人間です。その人と人が支え合い、お互いに協力し合ってこそ、活きたまちになります。お互い支え合って生きているということが、改めて認識できた事業でした。

 第8回アートふる山口の準備の段階で、平成15年(2003)8月に高校生ボランティアガイド約40名を引き連れ、吉井町を表敬訪問したことは、大きな意義がありました。吉井町では、中学生が観光ボランティア白壁隊を担っており、これら中学生がアートふる山口の視察団を6班に分けて、吉井町を案内してくれました。一所懸命取り組む姿は、山口の高校生にも良い刺激を与えてくれました。10月に開催した第8回アートふる山口には、吉井町から中学生達がアートふる山口を訪ねて来てくれました。アートふる山口がきっかけで、吉井町との交流が芽生えました。

そしていま

 1997年に日本青年会議所褒賞の最優秀グランプリを受賞し、その後国からは「歩いて暮らせる街づくり」モデルプロジェクト地区に大殿地区が選定され、2002年、文化庁が「菜香亭」の移築保存を認め、又山口市も大内文化のまちづくり推進を計るなど、素材発掘とまちづくりへの試みは確実に一歩を踏み出しています。「アートふる山口」での試みや皆さんの協力がいろんな形で成果を見せ始めていると言っても過言ではありません。

 第4回目からは継続的な「まちづくり」を目標に見据え、第8回目からは「まちづくり」から「まちおこし」へ目標を進化させ、より市民が中心となった実行委員会へと推移してきました。2010年には15回目の開催を目指すに至っています。「ひとづくり」も加え、フェイス to フェイスを合い言葉に現在、事務局はこの地域に生まれたアートふる山口テーマ館大路ロビー内に置き、毎年4月から翌年3月までの1年間事業とし、10月の2日間に1年間の「発表日」として開催しています。

 まちの再生に果たす役割は大きい事業と認められながらも継続し、形にする事への課題も多く、当面は様々な試みを繰り返しながらの模索となりましょうが、その灯火を絶やさず、充実した未来へ繋がる事を夢見て、皆さんと共に歩み続けたいと考えています。

 山口は歴史と文化・風土という、かけがえのない素晴らしい宝物を持っています。それを代々受け継いできたのはまちの人です。文化を伝えるのは人であり、人が伝えた文化ほど素晴らしいものはありません。この誇り高き財産をさらに高め、自分たちの子孫に残していくことが、「アートふる山口」の目指すところです。歴史あるまち山口で、水面に投じた波紋のように、ゆっくりと地域に根づき、「アートふる山口」が山口の起爆剤にならんことを願います。
posted by アートふる山口 at 00:00| 基本情報